釈征秀です、
浄土真宗の開祖である親鸞は以下のような
うたを残されています。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり
現代訳にすれば、おおよそこんな
感じになります。
善悪という文字を知らない人はみな
真実の心を持った人といえます
善悪の文字を知ったかぶりして
使うのは大嘘の姿です
吉?凶?【塞翁が馬】

私たちはみな自分たちの中にある判断基準を
ものさしとして善悪を判断しています。
例えば、
「病気になるのは悪いことだ」
と普通は思います。
お腹が痛くなったり、頭痛が起こったりを
自分から進んで起こしたいという人は
いません。
しかし、塞翁が馬ということわざの語源にも
あるように、災い転じて福となすと
いうようになるなんていうこともあります。
塞翁が馬ということわざができた由来を
ご存知ない方に、ご説明しておくと
塞翁が馬とは
「人の吉兆は判断ができづらい」
というような意味で使われます。
昔、中国にある老人がいました。
ある日、突然彼の飼っていた馬が逃げて
しまうというハプニングがありました。
老人は大切にしていた
馬が逃げたことにショックを受けます。
しかし、しばらくすると、逃げていった
馬が戻ってきたではありませんか。
しかも、逃げた馬よりもバリバリ働けそうな
立派な馬も一緒に連れてきてくれたのです。
それから時は過ぎ…
ある日、老人の子がその馬から落ちて
脚を折ってしまいました。
「あぁ!ケガをするなんて!」
と老人は子供の不幸を嘆きます。
しかし、彼の子供が脚を折ってから
しばらくすると、彼の国で兵士の徴兵が
盛んになるという事態になります。
脚を折っていた彼の息子は、脚を折って
いては役に立たないという理由で徴兵を
逃れることができ、結果的には
戦争に行かずにすんだのでした。
この話からもわかるように、人の人生の
一部を切り取ると不幸で悪のようにも思える
ようなイベントがあります。
しかし、不幸かと思われるような出来事の
「おかげ」で幸せで善になるというような
こともあるわけですね。
善悪は混沌

塞翁が馬からもわかるように、
善悪というのは、決められたものではなく
その場その場、そして見る人の違いによって
変化をしていくものです。
私が好きな小説の1つに『銀河英雄伝説』と
いう小説があります。
その小説の中にこんな言葉があります。
人間の歴史に絶対善と
絶対悪の戦いなどはなかった。あるのは主観的な善と主観的な
善との戦いであり、正義の信念と正義の
信念との相克である。一方的な侵略戦争の場合ですら、
侵略する側は自分こそ正義だと
信じているものだ。
人が人を殺すことが
正当化される
(ある側面においては…の話です)
極限の状態こそが戦争です。
住んでいる場所や所属している国が違う
ただ、それだけのことで人を殺していく。
冷静に考えれば、おかしな状態であることは
わかりそうなものなのに、なぜ人を殺すこと
ができるのか?
答えは自分たちが正義(善)だと信じて
いるからです。
大東亜戦争において日本やドイツや
アメリカなどの世界中の国が参加し
血で血を洗うような日々を過ごしました。
日本には日本の正義がありますし、
ドイツにドイツの、アメリカにはアメリカの
正義があったわけですよね。
どの国の思考や思想が善だとか悪だとかは
見る人によって違います。
日本人なら「鬼畜米英」といいながら
アメリカやイギリス人を目の敵に
しましたし、アメリカ側からすれば
「イエローモンキー」と蔑視して
日本を亡き者にしようとしていました。
絶対(誰からみても)の善はありませんし
絶対の悪も存在はしないのです。
そして、絶対的な善悪はないことを
押さえた上で、『銀河英雄伝説』には
さらにこんな言葉もあります。
絶対的な善と完全な悪が存在する
という考えは、おそらく人間の精神を
限りなく荒廃させるだろう。自分が善であり、対立者が悪だと
みなした時、そこには協調も思いやりも
生まれない。自分を優越化し、相手を敗北させ、
支配しようとする欲望が
正当化されるだけだ。
自分の思考こそが正義であり善であると
思うこと以上に危ないことはありません。
自分が善だと思いこんでしまえば
自分の行動はすべて正当化され、
多くの人が
「あなたは間違っている」
と警鐘を鳴らしても、聞く耳を持つことが
できません。
行き過ぎた『善』は『悪』を生み出し
かねないのです。
歴史を紐解けば、行き過ぎた善が
引き起こした悪の事例はいくつも
存在します。
・ユダヤ人はいなくなってもいい
→アウシュヴィッツに
代表されるユダヤ人虐殺
・異教者は殺してもいい
→インディアン虐殺、アフリカ奴隷制
・イエローモンキーは殺してもいい
→広島・長崎への原爆
・エルサレムを開放するためなら…
→十字軍による虐殺
代表的な事柄だけを例示しましたが、
これらの他にもたくさん行き過ぎた善により
非人道的な行為が歴史に残っています。
自分(たち)こそが正しいという信念は
非常に危ういものだということは
歴史が証明しているのですね。
親鸞の本音
さて、ここで冒頭に紹介した親鸞の
言葉に話を戻してみます。
今一度、親鸞の言葉を確認すると、
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり
とありましたね。
さて、ここまで
①人の善悪は塞翁が馬だということ
②絶対の善を決めてしまうことは危険
という点をみてきました。
これら2点を踏まえて親鸞の言葉を
みてみると非常にポイントをついた
言葉であることに気付かされます。
ある出来事(馬が逃げる)が起こったと
してもいい出来事(いい馬がくる)に
変わる可能性もあり、
「あ〜。それは運がなかったね」
と善悪をある出来事だけで判断することは
嘘だともいえます。
また、
「それはあなたの方が正しいよ!」
と決めつけてしまうと、行き過ぎた行為にも
なりかねませんから、嘘になります。
親鸞がどのような気持ちで
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり
と言われたのかは、今となっては
聞きようがありませんが、
非常に深い意味がある言葉だと
私は思います。
まとめ
「これはいい事だ」
「これは悪いことだ」
と私たちは簡単に出来事を判断します。
しかし、善悪という2つの対立する言葉を
理解することはなかなか難しいものです。
しかし、そうは言っても私たちは
自分が思う「いい事」と「悪い事」の
基準に沿って日々暮らしています。
そういった基準を持っていないと
私たちは行動が取れませんからね。
ただ、仏教に「中道」という言葉が
あるように、完全な善や完全な悪を
決めつけることなく、
完全善と完全悪に固執しない
ことが大切です。
日々の中において善だと思うこと、悪だと
思うことの思い込みに振り回されることなく
生きていくことが、仏教の生き方だと
いうことを覚えておかれては
どうでしょうか?


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