歴史・由緒
当山所蔵の由緒書きによれば、初代住職の名を「明閑」(1339年から住職)といい、宗祖親鸞聖人の孫にあたる覚如上人に帰依したとされます。その明閑が1350年ごろに伊勢長嶋にて寺を創建したのが淨安寺の始まりです。
その後、7代目住職「明賢」(1554年から住職)の存命中に大きな地震があり、伊勢長嶋に住むことが難しくなったため、岐阜へ移住してきました。
その大きな地震はおそらく、1498年に起こった「明応の地震」ではないかと推測されています。
新たな岐阜の地でいくつかの地を転々としながらも、そのおのおのの場所で堂宇を建立し、岐阜に親鸞聖人の教えを広めるために「明賢」は活動し始めます。
当時は寺号はなく「寄合所」と呼ばれていました。寄合所とはつまり、親鸞聖人の教えを聞くための「より合う場所」であったということです。

道三・義龍が岐阜城主であった1550年ごろには井の口道場(岐阜の真宗道場)として明賢が活動していたことがわかる。
浄土真宗の教えを岐阜に根付かせる努力をしていた当時住職でしたが、時は戦国時代。岐阜の地もその例外ではなく、岐阜城を巡って、土岐氏→斎藤氏→織田氏と支配大名が次々と変わっていきました。
そんな中、8代目住職「明玄」の時代に日本を巻き込んだ大きな戦が岐阜で起こります。
天下分け目の大決戦である「関ヶ原の戦い」です。
実は、親鸞聖人から始まった浄土真宗を宗旨とする寺「本願寺」も、この戦乱の中で大きな過渡期にありました。織田信長の石山本願寺攻めの際、信長へ徹底抗戦を主張する「教如上人」(東本願寺初代)と穏健的に話を進めようとしていた教如上人の父親で本願寺のトップである「顕如上人」との間には信長への対応の差からミゾができていました。
結局、その時の不和がもとで彼らの間はしっくりといかないまま、顕如上人は1592年に亡くなられてしまいます。それに伴い、教如上人は本願寺のトップを譲り受け、当時の支配者「豊臣秀吉」からも認可を受けるに到ります。
しかし、本願寺継承の際には先代より「譲り状」があるのが慣例でしたが、顕如→教如の際にはそれがなく、本願寺内にも教如上人を支持する派閥と、弟である「准如上人」を支持する派閥とに分裂していきます。
その後、顕如上人の遺言が発見され、そこには准如上人を後継とする旨が書かれていたため、教如上人はトップの座から退くこととなりますが、この分裂の火種は残ったまま、どちらを本願寺の跡継ぎとみなすのかは真宗門徒の間でも意見が割れていました。それを機として、本願寺を飛び出さざるを得なくなった教如上人は、各地を転々としながらも大津に居を構えます。
関ヶ原の戦い勃発の数ヶ月前、教如上人は突然、関東にいる徳川家康に会いに行きます。その道中、当寺に寄宿されたと、当寺の由緒に散見されます。
無事、家康と対面した教如上人は、京を中心にして、西軍(石田三成)が不穏な動きを見せていることを知らせます。その情報に家康は感激します。
そうして、家康との対面に成功し、教如上人は大津に戻ろうとしますが、時はすでに遅く、関ヶ原の戦いに望まんとしてすでに挙兵していた石田三成の軍勢に大垣で阻まれます。しかし、教如上人を支持する岐阜の門徒や岐阜城主の織田秀信の助勢により、なんとか難を逃れます。
その折に教如上人に助力したと考えられるのが、当山八代目住職である明玄です。『本願寺教如の研究』(小泉義博著)によれば、虎口を逃れた教如上人は当寺に再び泊まられ、体を休められたとされます。
危機を乗り越えた教如上人と8代目住職「明玄」は、岐阜の地を立ち、無事に帰洛することができます。京に戻り、安堵した教如上人は岐阜で便宜を図ってくれた織田秀信にお礼状をしたため、明玄にもたせ、織田秀信に渡すように頼みます。
しかし、そのお礼状は織田秀信のもとに届けられることはありませんでした。
というのも、教如上人が帰洛された、たった7日後、関ヶ原の戦いの前哨戦に位置づけられる「岐阜城の戦い」によって、岐阜城は落城してしまったからです。その後、織田秀信は助命されるものの高野山に送られてしまいます。
行き場を失ってしまった教如上人のお礼状は、そのまま明玄が保管をし、いまにいたるまで当寺で所蔵しています。

教如上人を無事に送り出すことには成功したものの、寄合所は窮地に立たされることになります。岐阜城の戦いの余波を受けて、寄合所が全焼・全壊してしまうのです。
しかし、「岐阜にまた寄合所を!」という門徒たちの手によって寄合所はその2年後には再建がされることとなります。その折、この寄合所の復興への尽力や教如上人の岐阜でのピンチの際に手助けをしたことにより、寄合所に寺号が教如上人より与えられることとなります。それが今の寺号である「淨安寺」です。それが1602年のことで、その時より今の境内地に堂舎を構えることとなりました。
岐阜の寄合所であったことを大切にしている当山では400年経った今もなお、本堂の屋根に「寄合所」と号した瓦を葺き、その思い出を偲んでいます。
以後、現住職まで28代にわたり、岐阜城のふもと、清流長良川のほとりに堂舎を構え、仏法伝道に努めています。

住職紹介
【法名】 釈征秀 シャクセイシュウ
【俗名】 大舘 征秀 オオダチ マサヒデ
27代目の先代住職、釈慶縁の孫として生まれる。
高校卒業あとは龍谷大学で仏教史学び、同朋大学にて浄土真宗についての学びを深める。
その後、先代の元で6年の間、仏教や寺のイロハを学びながら寺務を行ってきました。
私が28歳のおりに先代住職が急逝し、2015年より淨安寺の28代目住職を拝命いたしております。
プライベートでは、三人の男児の父親として日夜新たな発見の連続です。
「自分には厳しく、人には優しく」
父のこの教えを大切に生きております。
