仏と神との本質的なたった1つの違い

釈征秀です、

「神と仏の違いってなんですか?」

たまにこんな質問を頂きます。

もしかしたら

え?神、仏に違いなんてあるのニャ?
一緒じゃないのにゃ?」

全然、違う概念にゃ。
神と仏は別物にゃよ。

日本という国はとても面白い国で、宗教に対してとても寛容です。

その寛容であることを端的に表すために、よく言われるのが

「正月は神様、クリスマスはキリスト教、葬式は仏教」

という言葉です。

確かに、多くの人達は上のようなライフスタイルを取っていると思います。

海外からみると、時期やイベントごとにコロコロと宗教を変える日本人は変な目で見られているそうな。

宗教に寛容であると聴こえはいいものの、裏返せば宗教に一貫性がないともいえます。

日本は面白いですよね。

そんな日本の風土や日本人の性質によって、「神と仏も同じでしょ?」という考えを持つ人も多くいらっしゃいます。

が、神と仏はまったく違います。
まったく別の概念であり、根本的に意味することが違います。

ということで、今日は神と仏の根本的に違うたった1つのポイントを記事にしていきたいと思います。

神と仏の違いは色々ありますが、この1点の本質を押さえておけば大丈夫です。

この1点を理解しておけば、巷でよく言われる

・なぜ神様にはお願いするのか?
・仏様にはお願いしてはいけない

といった事柄が、なぜ言われるのかがわかるかと思います。

グローバル社会となり、世界がギュと近くなってきた今の世の中において、世界三大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)の知識をある程度持つことは必須教養レベルになってきています。

アメリカの方に

「神と仏、チガウんですーか?」

と聞かれたときにサッと答えられたらカッコいいですよね。

さらに、彼女と京都に旅行に行ったとき、

「なぁ、神と仏の違い知ってる?
下鴨神社と東本願寺は意味が全然違うんだぜぃ」

といえば、

「あなた博識なのね!憧れるう!ステキ!」

とメロメロパンチを食らわせることができるでしょう。

また、AIやゲノム編集、再生医療といった最先端テクノロジーの発達は著しいです。

今後、倫理観の見直しが起こってくることは間違いがありません。

そんな時、倫理観の裏打ちとなってくるのは宗教です。

例えば、キリスト教圏でクローン問題は大きな問題です。

なぜかといえば、人は神が作ったものという大前提がキリスト教の国にはあるからです。

それなのに人が、人を作るなんていうのはどうなんだ?
というキリスト教ならではの倫理観、宗教観が問題となっているのです。

キリスト教に馴染みが薄い日本では、クローン問題の問題点を「神しか作ってはいけないから」というようには考えません。

が、キリスト教圏の人にとってみれば、これは大きな問題なのです。

このように、宗教の素養がないと、

・なぜある出来事が問題なのか?
・ある出来事に怒るのか?

といったことが理解できないことが出てきます。

なので、ある程度、ある宗教のドグマや規範を知っておくことは、海外の人とのコミュニケーションにも役立ちます。

そういった意味でも、神と仏の違いは知っておいても、これからの人生の損にはならないと思います。

…では、神と仏との違いは何なのかをみていきましょう。

目次

そもそも神とは仏とは?

神と仏の違いに入る前に、まずはそもそも神とは?仏ってなに?という点から確認していきましょう。

様々な神様

まずは、神とは何ぞや?という点から見ていきましょう。

「神」と一言で言っても、神様はたくさんいます。

大黒様、弁天様といった日本おなじみの神様。

ゼウス、ヘラクレスといったギリシャ神話の神様。

日光東照宮の徳川家康や、明治神宮の明治天皇のように生身の人が、死後、神様になったというケースの神様。

イスラム教やキリスト教のような一神教(1つの神様しか考えない宗教)の神様。

このように色々な形の神様がいます。

日本では、神社が数多くあるように、基本的には「多神教」の信仰を持っています。

多神教とは、一神教の逆で、たくさんの神様がいるという考えです。

さて、この記事では話が煩雑になりますので、多神教の神様やギリシャ神話のような神様にフォーカスを当てるのではなく、世界三大宗教でもあるキリスト教とイスラム教が取る、一神教の神様にフォーカスを当ててお話していきます。

一神教の神様の2つの特徴

一神教の1つ目の特徴は、なんといっても神様は1人だという点です。

多神教に馴染みがある日本人には、少し不思議に思われます。

日本の神社には、様々な神様が鎮座されていますよね。

お伊勢さんにはアマテラスオオミカミ、
出雲大社にはオオクニヌシノミコトといったように神社毎におられる神様が違います。

ですから、お参りする神社によって、手を合わせる対象が変わってきているわけです。

が、一神教をとるキリスト教やイスラム教の聖堂や寺院では、どの寺院や聖堂に行ってもまつられている神様は同じです。

キリスト教の神様はゴッド、イスラム教の神様はアッラーと呼ばれます。

(ちなみに同じく一神教のユダヤ教では、神様はヤハウェと呼ばれます)

さて、意外と知られていない事実なのですが、キリスト教とイスラム教の神様は名前は違えど同じ神様を信じています。

???どういうことにゃ?
じゃあなんでキリスト教とイスラム教なんて違いがあるのにゃ?

それは、 神様の教えを誰が伝えたかという違いがあるからなのニャ。

センセイ猫がいうように、なぜ同じ神様を信じていても宗教が違うかといえば、神様の教えを誰が伝えたかという違いがあるからです。

キリスト教の場合は、神の子であるイエス・キリストが「神様の本当の教えはこうだ」と伝えました。

が、イスラム教の場合はムハンマドという方が「神様が望んでいるのは、こちらの教えだ」と伝えたわけです。

いうなれば、神様が人にお伝えになりたかったことを、違う人物を介してお伝えになったということです。

どちらの人物が神の本当の意思を伝えているかによって、宗教の違いが生まれてきているわけですね。

続いて、一神教の神様の特徴の2つ目は神様は全知全能であるという点にあります。

全知全能の神、つまり、神様はなんでもできるし、なんでも知っているというわけです。

全知全能を象徴する逸話として、天地創造のストーリーがあります。

天地や宇宙がどのように作られたのかという物語ですね。

聖書の創世記という章には

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。

光あれ。
こうして、光があった。

とあります。

これをみると、神という存在は宇宙を作り出したことがわかります。
そして、光すらも神が作ったとされています。

まさに全知全能。

また、創世記には最初の人類とされるアダムとイブのエピソードも載っています。

同じく創世記によれば、

神は仰せられた。

「さあ、人をわれわれの、かたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

ともあります。

神は自分の姿に似た生物を作ろうとされて、アダムとイブという2人の人間を「0」から作られたわけです。

うーん。まさに全知全能。

これらをまとめると、神は宇宙をも作り出すことができ、惑星をも作り出し、更には生物に到るまで、宇宙すべての事柄に関与できることになります。

つまりは、この宇宙にあるものすべては「神様の手のひらの上」にあるようなものだというわけです。

よく、イスラム教の方は「アッラーの御心のままに…」といいます。

全知全能の神が支配する世界なのですから、このような言葉が出るのが当然です。

一神教の神は、なんでもできるのですから人間の意思にも介入できます。

明日、車に轢かれることも、昨日買った宝くじが当たることも、さらに水を飲むことさえも神様次第なのです。

「水を飲もう」
「うんちしよう」

自分でこうした事を考えていると、人は思います。

が、一神教の神様を信じる人にとっては、こうした瑣末なことにまで、神の意志が入り込んでいると考えるわけです。

あなたはあなたの意志で動いていません。

すべてが神が予定した通りの行動を取っているのです。

だから、 「アッラーの御心のままに…」なのです。

さて、ここで一神教の神の特徴をまとめておきます。

・信じる神様は1つ
・全知全能であり、神の思い通りにこの世を動かす力がある

仏とは人?

では、続いて仏とは?ということについて見ていきます。

仏という概念が生まれてきたのは、当然ながら仏教をブッダが開いたときからです。

仏という名詞には、読み方もいくつかありますし、同じ意味をもつ類似語があります。

仏は「ほとけ」や「ぶつ」とも読みますよね。

また、仏と同じ意味をもつ言葉も
「ブッダ」「仏陀」とあります。

ほとけ、ぶつは日本語読みか中国読みかという差です。

そして、ブッダというのは、悟りを開いた人というサンスクリット語(ブッダの生きていた地域で使われていた言葉)をそのまま読んだものです。

そして、ブッダを中国で翻訳した時に、当て字として使われたのが「仏陀」という漢字なのです。

さて、仏という漢字を今はよく使いますが、正確には「佛」という漢字を使います。

佛という漢字は、「人」と「弗」という字に分解できます。

弗という漢字は否定の意味を持ちます。

つまり、「…でない」という意味ですね。

ですので、佛という漢字を分解したとき、その意味するところは

人ではない

というものになります。

ブッダは長年の修行により、悟りをひらきました。

悟りを開き、この世の理(ことわり)を理解したブッダは「人のようで人ではない」方になられたわけです。

そもそも、ブッダという名詞は普通名詞で、固有名詞ではありません。

普通名詞とは「人」とか「クマ」などのように、広い概念を扱う名詞です。

反対に固有名詞は「安倍晋三」や「織田信長」のように、1つのものや人を識別するために使われる名詞です。

ですので、ブッダという言葉は、人やクマのように普通名詞という大きな枠組みの中にある言葉なのです。

というのも先にも少し書きましたが、ブッダという言葉が本来意味するところは「目覚めた人・悟った人」というものだからです。

つまり、私にしてもあなたにしても悟りを開いたならば「ブッダ」と呼ばれるわけです。

ブッダになれるなれないは別問題として…

そして、一般的にブッダと聞いてイメージする人物の固有名詞(名前)はゴータマ・シッダールタ
といいます。

ゴータマ・シッダールタが悟った→ブッダとなった。

つまり、これが正しい理解になります。

さて、ここまでをまとめると

・ブッダは何人もいる
・ゴータマ・シッダールタが悟りを得て、ブッダ(目覚めた人)と呼ばれるようになった

・ ブッダはこの世の理(法則)を悟った

といったことがわかります。

神と仏の違いを理解する上で、仏の基礎情報はこのくらいで大丈夫です。

神と仏の違いを以降みていきますが、仏の情報として特に大切なポイントは「ブッダはこの世の理を悟った」ということです。

この点を押さえておいてください。

神と仏が大きく違う、たった1つのポイント

では、ここから本題である神と仏の違いについて見ていきます。

違いを確認する上で、注目するべきポイントは「神は全知全能である」ということと、「ブッダはこの世の法則を悟った」という点です。

繰り返しになりますが、ブッダは瞑想や自己内省の先に「悟り」を得ました。

では何を悟ったかといえば、この世の理であり法則を、です。

ブッダの悟りの内容を書いていくと長くなるので、かいつまんで説明していきます。

ブッダの教えは多岐にわたり、その量はべらぼうに多いです。

が、「ブッダの教えをまとめると、4つにまとめられるやん!」と気づいた賢い方がおり、その4つを「四法印」と呼びます。

①諸行無常 ②諸法無我 ③涅槃寂静 ④一切皆苦

この4つです。

簡単に見ていきます。

①諸行無常とは、物事がそのままであることはないという意味です。

言い換えれば、全てはものは変化するという真理です。

②諸法無我は、すべての現象には実体は無いという意味をもちます。

すべての物事はお互いに関連をもち、繋がっています。

バタフライエフェクトという考えがありますよね。

バタフライエフェクトとは、ブラジルで蝶が羽を動かすことで、アメリカに台風がくるという考えです。

このように1つの事柄が起こるには、たくさんの原因があって起こります。

だから、実体化された事実や物というものは存在せず、すべて縁なんだという真理です。

③涅槃寂静とは、煩悩が消えた安らかな境地を指します。

諸法無我、諸行無常の真理を体得することで、煩悩が消えて安らかな心で暮らせるという真理です。

④一切皆苦は、すべては思い通りにはならないという真理です。

生きること、老いること、病気になること、死ぬこと。

すべて思い通りにはなりません。

その事実を一切皆苦という真理で表したわけです。

ブッダはこれら4つの真理、4つのこの世の法則を悟りました。

神と仏の違いを理解する上での、大切なポイントはここにあります。

つまり、ブッダはこの世の法則を「発見」した人物であり、法則を「作った人」ではないということです。

ブッダは四法印という真理を悟りはしましたが、この四つの真理が与えられているこの世界を作ってはいません。

逆に神のところで確認したように、神は全知全能です。

宇宙を作ることや生物を作ること、なんでもお茶の子さいさいです。

仮に、ブッダ=仏が神と同様に全知全能だったらならば、悟った真理の法則を「変更」することも可能なのです。

「あー。あいつ、嫌いだな。
ロシアにでも飛ばしてやろ。」

なんて言いながら、嫌いな人を自分のそばから離すことも可能なわけです。

「あー。もうちょい生きてたいな。
寿命伸ばすか…」

こんなことも可能だったわけです。

わざわざ、「すべての物事は思い通りにならない」という一切皆苦という真理を打ち出す必要性すらありません。

だって、全知全能なら、この世界をどうにでもできるのですから。

つまり、ブッダは仮に神がいたとしたならば、その神が作った法則を「知った」のであり、法則を作り出した人ではないということです。

難しい言い方をすると、仏教のこの考えを
「法前仏後」といいます。

法が前にあって、仏は後にあるという意味です。

この世の法則、真理を発見したのがブッダなのですから、真理がまずあって、それからブッダが悟ったという順番になります。

逆にキリスト教やイスラム教といった一神教の全知全能の神は、その神自身が法則を作り出す側です。

そして、自身が作り出した法則の中で、人が幸福に生きるために選ばれた人に教えを授けることがあります。

その神の教えを受けた人というのが、イエス・キリストであったりムハンマドであったりするわけです。

そして、神は「こうしないと幸せになれない」「この規則を守らないと殺す」といったことを「命令」します。

こうした、キリスト教やイスラム教のような考えを「神前法後」といいます。

神があって、法が後にあるということです。

まず、神があって、その神が命じる法則を守らないと天罰があるという後があるわけですね。

神=法則なのです。

この考えを推し進めると、極端にいえば、仏教にとって本質的には「仏」はなくてもいいのです。

ぇ?どういいうことニャ?

まあ、実は突き詰めるとそういうことになるのニャ。

なぜなら、ブッダ(仏)は法則を見つけた方であり、ブッダの役割とは法則の説明者だからです。

なので、ブッダが発見した真理を、ブッダの教えを聞かずとも悟れる人がいたならば、その人にとってはブッダ(仏)は必要がないという論理になります。

ブッダの遺言は

自分をよりどころにせよ。法(法則、ブッダが見つけた真理)をよりどころにせよ

でした。

ここからもブッダ自身、自分自身に対してではなく、真理を大切にすることを強調していたことがわかります。

が、神は必ず存在しなければ、一神教は成り立たないのです。

なぜなら、神がいなければ法則ないばかりか、この宇宙や地球、人間も存在できなくなってしまうからです。

一神教の神は「実在しないといけない」わけです。

ここまでをまとめると、神と仏が根本的に違う理由はこうなります。

・神は法則を作り出す
・仏は法則を発見した方

まったく神と仏が別物であることがわかりますよね。

まとめ

ここまで、神と仏が根本的に違う理由について書いてきました。

日本では神と仏は一緒のように考えられる節がありますが、本質をみていくと実は全く別の概念であることがわかります。

キリスト教やイスラム教と仏教。

どちらの宗教が優れているとか劣っているとかそういう意図は、まったくありませんので、悪しからず。

仏教には仏教の良さがあり、一神教には一神教の良さがあります。

神とは何?仏とは何?

という疑問に対して、本質的なお答えしたく、今日の記事を書きました。

お役に立てていれば嬉しいです。

神と仏には違いがあったのにゃね。知らなかったニャ。

そうなのニャ。覚えておくといいのにゃ。

彼女のたまちゃんに教えてくるのニャ!
「はくがく~」って感心されたいのニャ!
そして・・・ムフフ♡

・・・・・・・・まあ、いいニャ。

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